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萩原 遼(はぎわら りょう、1910年 - 1976年4月3日)は、日本の映画監督、脚本家である。第二次世界大戦前の京都にかつて存在した脚本家集団「鳴滝組」に最年少で参加、映画史に名を残す。戦後は東映京都のプログラムピクチャーの名手として知られる。本名-陣蔵(-じんぞう)〔〔。 == 来歴・人物 == === 山中貞雄の影 === 1910年(明治43年)、大阪市西区(現在の同区堀江あたり)に生まれる。のちの映画監督の萩原章は3歳下の弟である。1928年(昭和3年)、当時日本の租借地だった遼東半島先端部の都市大連に日本が建てた旧制関東州立大連第一中学校(現在同地には大連理工大学の一部がある)を卒業、当時の同級生に脚本家高岩肇がいた〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「萩原遼」の項(p.310-311)を参照。同項執筆は結束信二。〕。 1930年(昭和5年)、20歳のころ、京都・御室のマキノ・プロダクションに入社する。当時の同社は前年の牧野省三の死後の小笹正人撮影所長・マキノ雅弘撮影部長による新体制で困窮している時期であった。同社は同年12月に解散、萩原はその後、23歳のころに、1934年(昭和9年)に日活京都撮影所に入社した〔。同年、助監督として師事した1歳上の師匠・映画監督の山中貞雄とともに、脚本家の八尋不二、三村伸太郎、藤井滋司、監督の滝沢英輔、稲垣浩、鈴木桃作による脚本集団「鳴滝組」に参加〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「菅家紅葉氏談話 」の記述を参照。〕、共同ペンネーム「梶原金八」として執筆を開始する。サイレント映画からトーキーへの移行期であった。 1935年(昭和10年)、三村脚本・山中監督による3本目のトーキー『丹下左膳余話 百萬両の壺』のチーフ助監督につき、三村脚本・山中の稲垣との共同監督による次作『関の弥太ッぺ』の脚本潤色作業に「梶原金八」のメンバーとして参加する。同作のヒットにより謎の新進脚本家「梶原金八」は勇名を馳せる。 1936年(昭和11年)、26歳のころ、山中原作・萩原脚本によるトーキー『お茶づけ侍』で監督としてデビュー〔〔、同作は同年7月1日に公開された。すぐに片岡千恵蔵に注目され、日活と配給提携をしていた片岡千恵蔵プロダクションで、梶原金八オリジナル脚本による『荒木又右衛門』を監督、さらに翌1937年(昭和12年)の正月第2弾『修羅山彦 前篇』、つづいて翌2月公開の『修羅山彦 後篇』を同プロダクションで監督する。師匠の山中は、そのころすでに上京の決意をしており、同年3月19日公開の『森の石松』を最後に、すでに滝沢のいる東京のP.C.L.映画製作所に転じた〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「山中貞雄」の項(p.427-429)を参照。同項執筆は加藤泰。〕。 東京に移った山中は同年、『人情紙風船』を撮り、同作が公開されたのと同じ8月25日に召集令状が届き、東京から戦地に赴いた。萩原は京都のJ.O.スタヂオに移籍したが、同社は同年、P.C.L.ほかと合併して東宝映画となり、J.Oは京都撮影所、P.C.L.は東京撮影所となった。京都撮影所で『日本一の殿様』、翌1938年(昭和13年)春には三村の脚本による『浮世小路』を監督し、さらに山中のいたはずの東京撮影所に呼ばれ、大河内伝次郎主演の『清水の次郎長』を監督した。同作は9月17日に公開された。やがて恩師山中の突然の訃報が入る。山中の戦死したとされる日は、同作の公開されたのと同じ「昭和13年9月17日」であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「萩原遼 (映画監督)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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